「ビルマの竪琴」竹山 道雄 氏 著

先日、偶然この本に出会いました(…と、そんなことばかりですが)
1962(昭和37)年発行。




じつは自分は恥ずかしながら、この「ビルマの竪琴」は
初めて読みました。原作は一般的な小説ではなく、児童向け文学である
ということも初めて知りました。
「水島ーー!いっしょにニッポンに帰ろう!」
のセリフごときで感動した自分が、読後は少し恥ずかしくなりました。


物語は、大陸や南方から復員してきた日本兵が横須賀に上陸した際、
その中でもある一隊が元気よく歌って帰還したところから始まります。

隊長は音楽学校を出たばかりの若い音楽家で、部下に熱心に歌を教えていました。

「歌のおかげで、くるしいときにもげんきがでるし、たいくつなときにはまぎれるし、
いつも、ともだちどうしのなかもよく、隊としての規律もたっていました」

その隊のひとりが話してくれたのが「ビルマの竪琴」だったわけです。


読み始め当初は、映画で観たことを思い出す検証作業のようでしたが、
読み進めていくうちに、映画はしょせん映画に過ぎず、と思い知らされました。

物語の核となる、水島上等兵から渡された手紙は、かなり長いです。
この全文を読んで初めて、水島上等兵が日本に帰らなかった決心の底にあるものが
よくわかった気がいたします。
ご本人はもっと苦しみ、考え抜いて、ご自分なりの結論を出しました。
映画や話し言葉だけでは伝わらないのが残念なところです。


水島上等兵のいた部隊では、歌謡曲を歌うことを嫌い、
音楽家である隊長が教えた、高度な合唱曲で勇気づけられました。
そして結果的にはこの歌で部隊は救われ、生きて帰ることができました。

この前向きな隊長があってこその部隊であり水島上等兵であり、
人が生かされるのも生かされないのも上の人次第、という、
現代に通じることもよく表現されています。

なお、部隊が「埴生の宿」など二重、三重唱の高度な曲を選んだのも、
「流行歌」が嫌いで誰も歌わなかったから、だそうです。
軍歌や歌謡曲は当時の国内では盛り上がったようですが、
戦地の方々がそれを聴いて士気高揚に繋げたわけではなかったのです。


また、自分が過去に読んだ、ラバウルの地でマラリアに感染して死にかけた方の手記で、

椰子の実は捨てるところがない、
部隊または少人数ごと、演劇などで文化や理性を失わないよう
努力していた、
捕虜になっても言われるまままじめに働いて好評だった、

など、実際にあったことも随所にあるので、
「ビルマの竪琴」はかなり実体験に基づいた内容であることがよくわかりました。

だから、今だから笑えますが水島上等兵の手紙にあった人食い人種:首狩り族に
つかまってひどい目にあったお話もまんざらウソではないのでしょう。

事実に基づいた貴重なお話、という意味でも、
さまざまな年代の方々に読んで、後世へ伝えていただきたい本です。


ところで、児童向け文学:当時のこども向け創作物語というと、
戦争児童文学、というカテゴリがあります。

こども向けに、戦争以上に、

「日本はダメな国なんだ!」
「日本人はこれだからダメなんだ!」


と、説得しようとした内容の本で、大量に出版されました。
たまたま複数読む機会があったのですが、中には
アクロバット飛行機すら死の兵器だ象徴だと押しつける
強引な内容もあって思わず苦笑。

どうもこれは一種のビジネス、プロパガンダだったのではないか、
という自分なりの結論に到達しました。

だから児童向け文学、と聞いたところで少し警戒したのですが、
この「ビルマの竪琴」では、少なくとも強引なところはありませんでした。

あるとすれば、ビルマ(現ミャンマー)の国の人々の模写を通じて、
ドン欲に海外に勢力を広げて成長していくのと、
欲もなく平和で静かに暮らし、他の豊かな国に依存して生きていくのと
どちらがいいですか、
とぼんやりと問うくだりはあります。
個々に考えさせる、という意味ではプロパガンダと根本的に異なります。

亡くなった方々が「繋いでいってほしい」と望まれることは何か。
悔恨や憎しみだけに引きずられてそこに留まって動けなくなることを
はたして望んでいるのだろうか?


こういうことを若い世代の方々に伝えていくためにも、
お勧めしたい1冊です。

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