お葬式考

 今月は、親戚のお通夜お葬式に参列しました。








何度も大手術に耐えた強靭な方でした。

数年前に自宅周囲の散策に同行した際、

その健脚ぶりに大いに驚嘆しました。


墓地と葬儀場はご自宅近くで、

親戚や近隣の方々が気軽に参列できるのは

年配の方々にとってはとてもありがたいことです。

故人の生前の思いやり、配慮が伝わるようでした。


それがアレ??と感じたのは、

亡くなってからお葬式までがとにかく長い。

火葬場に行くまでにすでに初七日です。


故人の住む都市は、最近の報道で、

「人口が増えて活発」「住みやすい」

のイメージで好印象を与えました。

しかしそれは単純に、

生まれる人も亡くなる方も

増えるということです。


お葬式スケジュールが長くなるのは、

当然ながら、火葬場の予約がいっぱいだからです。


火葬場に行く日が先延ばしになる、とは

どういうことか。

日本人は薬漬けの食べ物や

飲み薬だらけの生活のおかげで

腐敗が遅い、と聞いたことがありますが、

冷蔵やドライアイスで賄いきれない、

と自分は故人を見て衝撃を受けました。

親族の

「毎日変わっていく」

の淡々とした一言が印象的でした。


くぼんでいく目や皮膚は、

日々化粧で修復するために

どんどん厚化粧になっていきます。


個人は教養も知識もあり経験も豊富で、

兄弟姉妹から尊敬されていた方でした。

悲しい以上に、とても申し訳ない、

かわいそうな気持ちになりました。


そして火葬場へはバスで片道約30分。

最近、炉を増設したそうですが、到着直後は、

炉の前で再び読経とお焼香ではなく、

「手をお合わせください」

でいきなり炉に搬入そして点火。

最後のお別れもヘッタクレもありません。

それが合理的なのでしょうが、

いかにも余裕がなさそうに見えました。


待合室では、他の火葬場で経験したとおり、

急須やポットがないので質問したら、

茶葉とカップは有料、という。

おそらく人手不足もあるでしょう。


収骨室では、担当の方が黙々と(手際良く)

お骨を集めました。

自分の身内の時は、

「この部分が悪かった(=痛かった)のですね」

と説明してくださり、

「ああもう痛みから解放されたのだ」

とホッとしましたが、

それもありませんでした。


火葬場が足りなけば増やせばいいのでしょうが、

もし仮に建設が決まったとしても、

周辺住民が

「火葬場建設反対!」

といえば全ては頓挫します。

「都会に住む」とはそういうことです。


そしていまさらですが、お通夜お葬式では、

普段は接触がない方々と会う貴重な機会です。

それが今回は、喪服だというのに

ブリーチしまくった金髪や真っ赤な髪に、

お焼香では、肘を曲げてお腹に手のひらを当てる

見慣れないお辞儀をしたり、

出された瓶の飲料をラッパ飲みする

方々が一部にいて、

「葬式なめてんのか」

「こんなのと親戚か」

という雰囲気になりました。

自分の中でもこういうのは史上初でした。


近隣の都市も含め、自由で先進的なのでしょうが、

条例に従えとかそういう時代だから

黙ってあきらめろと言われて引き下がるほど、

人々はまだ無力ではないでしょう。


人が亡くなる、というのは悲しい、というより

「寂しい」感情が押し寄せてきます。

もう電話もメールも通じないところへ

行ってしまう。


お葬式では普段会えない方々と会い、

語り、繋がりを確かめ合います。

迷っていることがあれば、

誰かがヒントを教えてくれるかもしれない。


時代に合わせて合理的にしなければ

ならない部分もありますが、

お葬式くらいは、ゆっくり余裕を持って

故人を送り出したいと感じました。

コメント