多磨霊園と国葬

 今では珍しくなくなった「自費出版」だが

その元祖的な冊子が手元にある。

「多磨霊園案内」だ。

平成5(1993)年発行。

たまたま入手した。多摩だけに。










とにかく多磨霊園に眠る偉人の

多さ、多種多様さに驚く。

一度は行ってみたくなる。

人の博物館があるとしたら

まさしくここである。


本はなんと全てガリ版印刷だ。

印刷した用紙を半分に折り、

端を接着剤を塗った紙で留めている。

1ページは紙2枚分なので無駄に厚い。











しかしこの内容と取り組みは、

個人のホームページそのものである。

ガッチガチのHTMLに

ウキウキしたあの時代を思い出させる。

それが紙になって目の前に現れた感がある。


自分が特に印象に残ったのは

海軍軍人の東郷平八郎元帥の記述だ。

その人物なり、だけではなく

おこなわれた国葬の様子が

詳しく記載されていて興味深い。


現在、似た内容のホームページもある。

特にこの東郷元帥に関する記載が

ほぼ同文なので、

もしかしたらこの「多磨霊園案内」に

影響を受けたかもしれない。


「多磨霊園案内」の内容を下記に転記する。


東郷平八郎

(弘化4:1847年〜昭和9:1934年)

昭和九(1934)年五月三十日朝、

麹町三番町自邸で死去。


元帥死去の報は、全世界に報道され、

その葬儀は国葬をもって営まれた。

六月四日、日比谷公園で行われた国葬には、

英・米・仏・支・伊の五ヶ国は軍艦を派遣し、

その海兵が儀仗兵として葬儀に加わった。


当日の人出は、東郷邸から日比谷まで

五十九万七千人、国葬場付近七十万人、

国葬場から多摩墓地まで五十六万七千七百人であり、

国葬場では、十万人の霊前の参拝ができたが、

六十万人が参拝できなかったと、

警視庁が発表したほどの大変な騒ぎであった。

その混雑ぶりを、「東京朝日新聞」は、

“潮の如く葬場へ、葬場へ大東郷追慕の大衆”

との見出しで、


「一般の拝礼は予定の時刻よりも早く

午後零時十分から始まった。

朝早くから日比谷公園の囲障に詰めかけていた

大群衆は、入園が許されるや、潮のように

葬場に詰めかけた。最敬礼ができたのは、

最初に入った二、三十名の人達だけ、

あとは、あとから、あとからと

詰め寄せる人々のために、

お辞儀どころか身動きもできぬ有様であった。


何時になったら入れるか分からぬ人々は、

正門を避けて、途中の鉄柵から

もぐり込もうとするのを

警官が必死に制している。


この物凄い騒ぎに公園内に入る女性は、

流石に少なかったが、公園の周囲には

歩道や街路樹の下の芝生にまで、

多磨墓地へ送る人々で埋まっていた。

かくて霊柩は午後二時五十分、自動車で

葬場を発し、多摩墓地に向った。」


と報じている。


葬儀を終え、日比谷の国葬場を発した霊柩車は、

車を連ねて夕刻、多磨墓地に到着、

大角海軍大将以下将兵約100名が参列する中で

斂葬の儀(れんそうのぎ、㪘葬の儀、埋葬式)を

行って名誉霊域に永遠の眠りについたのであった。


なお、五十日祭まで、霊前の燈明を絶やさないための

墓守りには、多数の希望者があったが、

日本海海戦当時「三笠」で元帥を生死を共にした

勇士の中から十二名を選んで

最初の一週間だけ交替で勤めた、と

当時の新聞は報じている。


このことによって、元帥を埋葬した多磨墓地の名が

一挙に世間に広まることになった。

それまでは、墓地を使用する市民は予想外に少なかった。

これから後、多磨墓地使用は、

我も我もと増加の方向に向かった。

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