ジョウロの中の蛙

 先日、趣味(だがかなり本格的)の

畑で野菜を育てている方から、

「大根できたから取りに来て」

とお声かけいただき、畑へ行ってきた。


なぜかすごく近くからカエルの鳴き声が

したので、探したらなんとジョウロの中に

蛙がいた。

指でそっとつついたら、反転して奥の方へ

引っ込んだが、中で方向転換してまた顔を出し、

元の定位置に収まった。


人がその場から離れると、再び鳴き出した。

飄々としているように見えながら、

天敵の蛇に見つからないよう、

ひっそりしっかり生きている。














「井の中の蛙、大海を知らず」

と知られすぎた諺(ことわざ)がある。

意味は、


「(広い海を知らない蛙のように)

自分が持っている狭い知識だけで、

なんでも推測って済ます浅はかさの例え 」

(新明解国語辞典)


と、聞こえがあまり良くない。

さらに「何でも推測って済ます」表記は

ちょっと想像が過ぎていないか。

ワイドショーも似たようなものだ。

犬や猫のビデオを見せて、さらに

「こういう気持ちだった」

「こういうつもりだった」

と深く突き詰める。

一見優れているようで、全く根拠がない。

数分でテレビから目をそらしてしまう。

人文系はそういうもの、と言われてしまえば

あぁそう、と適当に返事するしかない。


だが人に邪魔されても、同じ狭い場所に戻って

再び鳴き出す蛙を見て、少なくとも、

自らその立場を選んだのだ、と自分は理解した。

井戸くらい、吸盤のような手足を使えば

いつでも出られる。

しかし出たとして、周囲は敵だらけである。

だったら井戸の中で、隅々まで極めて、

ひっそり安泰に暮らすのも、

一つの生き方ではないか。


ところで「ジョウロ」と軽く片仮名で書いたが、

上記でも引用した新明解国語辞典によると、

ジャルロ jarroというポルトガル語が転じて

ジョウロ、らしい。

jaroってなんじゃろ、にちょっと似ている。


「如雨露」は当て字だが、

雨露の如(ごと)し、とは、

なんと美しい表現ではないか。

「ジョウロ」と書けば誰でも読めるが、

その表記で、例えば紫陽花に、

静かに降りかかる雨露を想像するのは

ちょっと無理だ。


大正三年十二月発行、大正八年五月十七版の

日用いろは新辞典にも、「如雨露」の記載はある。














プランターや鉢に水をあげる時は、

せめて心の中で、雨露の如く、

と呟きながら植物を愛でたいものである。

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