お通夜とイケメン僧侶

 先月、急逝した知人のお通夜に出席した。

7月に共に参加した清掃イベントを思い出し、

悲しみより寂しい気持ちがドドドと湧いてきた。


とにかくご本人のお顔を拝見したら帰ろう、

となるべく冷静な気持ちでいた。


お通夜、お葬式の進行は、参列する回数を

重ねると、次はだいたいこうだ、

というのがわかってくる。


こういうことに慣れるには、

情報集めより場数をこなすしかない。

とにかくタイミングが合えば

参列されることをお勧めする。


あいにく前回までに参列したお通夜では、

僧侶の方のご講話(お経を上げていただいた後の

ありがたいお話)はなんだかグダグダして、

何をおっしゃりたいのか

(それとも自分の心が汚れているのか)

さっぱりわからなかった。


今回も時間通り、僧侶の方がお席について

お経が始まった。

意外とお若い声だな、と気づいた程度だった。


やがて参列者のお焼香も終わり、

僧侶の方が立ち上がって振り返った時、

思わず心の中でワー!と叫んでしまった。


SNSでたまに話題になる

イケメン坊主(失礼)が目の前にいた。

いやいや本当にこういう方が

いらっしゃるのだ。


自分のようにある程度年齢を重ねると、

見た目の良さは、まず疑ってしまう。

外側だけ取り繕っているのか、

それとも内側から知性が湧水のごとく

あふれてきているのか。


それがお経の後のご講話を聞いていて、

これは知性だ、と理解した。

とにかくわかりやすくて驚き、

感動したのだ。


四十九日の間は、

故人が審判を受ける日々が続くから、

遺族や知人は、故人にしっかり

声援を送って(祈って)ほしい、

と教えてくださった。

人は亡くなってもなかなか落ち着かない。


話し方もとても勉強になった。

人にわかってもらう話し方、というのは、

経験を重ねたり、

ワークショップ等に複数回参加したりなど、

かなり学習しないと、習得は難しい。


文字の羅列や、かっこいい・美しいもので

ごまかせる昨今では、

そのスキルを発揮できる機会が少ない。


さらにトドメを刺された気がしたのは、

「存じます」

とおっしゃったことだ。

ヤッター!と思わず心の中で拍手した。


個人的に、テレビやラジオ、SNS、

動画サイトでも耳につくのは

「思います」だ。


自分が昔受けた(まともな)セミナーでは、

この「思う」と「とりあえず」は

会話から削除しろ! 使うな!と指導された。

生き方が変わるから。

「思う」だけじゃなくてやれ!

ということである。


例えばテレビで、アナウンサーなどが

食事を目の前にして

「これから食べようと思いまーーす!」

と叫んでいると、

台本通りに進んでいるのに

何言ってんだコイツ、という気になる。

「これから食べまーす!」

でいいではないか。全くまわりくどい。


それでも会話の中で、

「思う」を使いたい時は、謙譲語として

「存じます」

を使う。

その僧侶の方は、同年代の人々が

「思いまーす」と

テキトーにお茶を濁すところ、

しっかり「存じます」と表現したので、

自分は感激した。

よく勉強されたなぁ、

と心から尊敬した。


お通夜やお葬式に来てよかった、

ご講話を聴いてよかった、

と浄化された気になったのは

おそらく初めてだ。

改めて故人に感謝したのだった。














ところで最近、

親戚、近隣で人が亡くなるたびに

痛感するのが、


いつも頼りになる、

この人がいるから大丈夫、

この人が全部やってくれる、

これはこの人に任せればよい、


と依存されている方から

亡くなっていくことだ。


残された人々は呆然とするしかない。

あわてたところで、

もう電話もメールもラインもSNSも

いっさい繋がらない世界へ

行ってしまった。


会社でも社会でも、

「この人しかわからない」

状態はとにかく危険だ。


だからもし、少しでも「すごいなあ」と

尊敬する人がいる場合、

その人のやり方、生き方、信条など

とにかくお元気なうちに

しっかり受け継ぎ、

自分のものにしていくしかない。

まだ先のこと、と呑気に構えていると

ある日突然、路頭に迷い、

目も当てられない。


故人が冥土の旅の途中で

不安に感じることがないようにしたい。

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